多様性のパラドックス(定期更新:5)


 多様性が認められる新しい時代にも当然のようにこれを認めたくない・追いついていけない反乱分子は存在するのだが、今回はこれについて話していく。

《多様性のパラドックス》

多様性を認める社会は、「多様性を認めない」という多様性は認めてはならない。
 一見矛盾しているように見えるこの命題(注1)には、現実で大切な本質が隠れている。
 多様性を認める社会は、その思想が認められたことによって存在することができる。したがって、多様性を認めないという多様性は多様性を認める社会が存在するための前提が成り立っていないのである。資本主義国家で社会主義を、社会主義国家で資本主義を唱えることのようなものだ。

 また、実はこのパラドックスは私達の周りにも意外と存在している。
 例えば、職業選択の自由が保証されているのにも関わらず無免許の医者が医療行為をすることは禁じられている。また、乗り物を自由に運転する権利は基本的な人権として認められているにもかかわらず、車やオートバイは運転免許を持っていないと公道を走ることはできない。
 これらは無闇に行使することが公共の福祉に反するため、一部の権利か制限されていることの一例である。

 このように、コミュニティの平安のために一部の勢力に対して不寛容になることは非常に大切なことである。したがって、自身が寛容であるか否かは別に、自身の存在を脅かす存在は容赦なく排除することが推奨される。



諸君も脅威は排除していこう。


Phylmer.M


注1)
 カール・ポパーの寛容のパラドックスにおいて、「寛容である」の否定が「不寛容である」とするならば、「不寛容に対して不寛容である」は「寛容に対して寛容である」(命題)の二重否定にあたるので同値であるから、全く矛盾はない。したがって、本文の多様性のパラドックスもカール・ポパーの主張のパクりみたいなものであるため、何ら矛盾しない。

出典・参考・引用

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