枠組みの中の正解(定期更新:6)

 たまにTwitterを開くと、未だに陰謀派の反ワクチンが蠢いていてなんだか少し安心(?)する。というのも、彼らの理論構成に感情が多分に含まれているので、小学生の理屈のようで昔を思い出せて心が温かになる。理論だ理屈だと皆言うが、日本の義務教育では討論をガチにはやらないので、感情の混じらない理論立てと相手を打ち負かす巧妙な言い回しだとかが練習不足なのだと思う。そのため、過激な思想家-反ワクチン・フェミニスト・中核派・ヴィーガン-はなにかと議論・討論をしたがるのに、結局のところ何を言いたいのかよくわからない。ディベート文化が日本でも栄えるのは良いことだと思うが、ひろゆき氏の活躍のせいか、極論や論点ずらしや煽りなどチート行為も目立っている。
 かくいう自分も何を書きたいのか見失いそうだ。

 さて、これを書いている現在、ネットでの過激思想といえば前述の者たちであるが、彼らの言い分は多くの人にとって気味悪いだろう。しかしながら、彼らの主張は大抵が正義である。2つの異なる一神教が異教徒を互いに迫害・虐殺etcするのと同じくらい正義であり、大いに結構なことなのではないか。
 しかしこれは、彼らの行動を擁護・支持しているわけではない。迫害・虐殺はどう考えても悪いことだ。
 そういうわけでここでは、過激な思想を持つこと自体は何の害にもならないが、それを行動に移す過程で悪が発生していることを考察する。
 結論から言えば、悪を発生させているのは「公共の福祉」を自覚していないということだ。(前回の定期更新のネタの使い回し)
つまり過激思想を説くことは、無免許運転とかと同じ次元の問題でええんでねぇかということだ。そう考えると反ワクやフェミなんてのは可愛いもので、身近にいたとしてもそれは【中学の時の同級生がなんか悪さしてる】程度の認識でいいはずだ。押し付けてくる奴は前回同様に排除しろ。

 纏まらなくなってきたので今回はこの辺で。


Phylmer.M


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