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Abstract

久々/超分子化学へ/

暇潰し読書/朝井リョウ/大学生を描いているからこそ/北大いいなあ/就活/面白くてヤバい/これまでの読書歴/石原慎太郎/文学/

小中高生の読書習慣が危ない/ついでに学力低下も/なんで読書が大事?/3つの理由:言語化力・読解力・文化/この話がしたかっただけ/継承/それを科学と呼ぼう/


 8月頃に気合の入った記事を書いた割には,4ヶ月間何も書いていないことを思い出した.普通に忙しかったのである.しかしこれを書いている今は少しの隙ができたので久々に何か書く.

 そういえば研究室配属が決定した.前回の記事で色々と気合の入ったことを言っていた割には,ここに書きに来るのを忘れていた.身近な人には既に言ってある上に,この記事もどうせ誰も見てないだろのマインドで書いているのですっかりと失念していた.

 さて,ラボ配属によって超分子化学の世界に足を踏み入れた訳である.基本的に,化学には3つの基礎分野(有機化学・無機化学.物理化学)があり,それで雑に括るならば有機化学の領域に入ったのである.超分子化学は高分子化学よりもまだまだ新しい領域であり,また,材料科学よりも生命科学へ期待されているような感じがする.研究室の先輩談の,学会でしばしば発生する「その研究は何の意味があるの?/何が面白いの おじさん」からすれば,ちょっとインパクトに欠けるかもしれない.ただこういう時に権威は便利である.2025年ノーベル化学賞のMOF(PCP)は広義の超分子である.なので非化学者に絡まれた場合にはそういう説明をしようと思うのである.


寄り道

 暇の潰し方は色々あるが,筆者は最近小説を読み始めた.駅前のくまざわ書店でぶらぶらしていたときに偶然,あるタイトルが目に飛び込んできた.朝井リョウの『死にがいを求めて生きているの』であった.文庫本にしては分厚いなと思いつつも,日々の隙間の時間...電車,寝る前,大学の休み時間,課題のやる気が起こらないとき...に読んでいたら3日くらいで読了してしまった.これは別に,電車の時間が長い訳でも,常にやる気がない訳でもない.内容が面白くてどんどん読み進めてしまったのである.小説の内容に触れるのは未読者の体験を損なうことになるので一先ずは控える.ただ,物語の舞台が主に北海道であることと,主要キャラクターの何人かが大学生であることが個人的な没入ポイントであったと思っている.北大にいる友人を羨む.

 別の作品で言えば,同著者の『何者』も良かった.就活をする大学生たちを描いた作品で,主人公たちのリアルさがTwitterのつぶやきという形で表現されている.就活をしない人間としては,一種の教養であったように思われる.就活ってあんなに大変なんか.


 こういう面白い作品はいけない.なぜなら,やるべきことが手に着かなくなるからである.本を閉じても考察が捗って仕方がない.ワーキングメモリの圧迫が甚だしい.普段ならば締め切りの2日前に提出できていた実験レポートが,締め切りの前日になっても終わっていないという事態になっている.いけない.

 思えば逆に,これまでのめり込むほど面白い小説に出会っていなかったことに驚きである.今まで読んでいたものを遡ると,『太陽の季節』とか『宿命』などの石原慎太郎の作品や,『罪と罰』とか『1984』みたいな教養色の強いものが多く,総じて物語への認識と自身の現実体験が遠いものばかりである.

 教養的文学作品は人類に認められているから良いとして,最近の日本の文学作品である石原の小説と朝井の小説を比べてみると,現代人だからだろうが,朝井作品の方が物語への納得感が大きい.ぶっちゃけ,石原作品は我々には刺激が強すぎる.というか反倫理すぎて話が途中からわからなくなる.『太陽の季節』の途中の,竜哉が英子を金で売るところが誰の利益になっているかが全然わかんない,目的もよく分からない.現代のフェミニストに見つからないことを祈る.一方で朝井作品が納得感をもつ理由としては,描かれるのがどこにでも居そうな現代人で,”普通の人”だからだろう.どの作品を取っても,多分,それは変わらないんではないだろうか.”普通の人”だからこそ,物語の中で起こる事件がリアルに思えるし,いかにも自分のことのように響くんだろうと思う.実際,『死にがいを求めて生きているの』はそういう風な感想を持った.これだから朝井リョウの作品はいけない.


読書の現状,なんで読書って大事?

 先日,友人と活字の本と電子版の本とに関して色々話すことがあった.個人的には紙の本が好きで,見返しやすかったり本棚にコレクションできたりするのが良い.また,人に貸したり,人から借りたりしやすいのも利点である.思えば,音楽を聴くにも圧倒的にCD派なのだが,紙の本とCDとで利点が結構一致している.興味深い.


 近年,若者の読書習慣がなくなってきているという.ベネッセの2025年11月の調査では,小学4年生から高校生までのいずれの段階の児童生徒も読書時間が減少していた.その代わりに,スマホの使用時間が大幅に増加していた.


 ついでに言うと,学力低下の傾向も甚だしい.ただし勘違いして欲しくないのは,スマホだけがこの事態の原因ではないということである.

 学力低下の主な原因は,探究学習やグループワークなどのいわゆるアクティブラーニングである.本来,授業では基礎概念の導入から簡単な利用,ときに応用などを扱う.これは理科や数学だけでなく,英語や国語,社会科などでも同じである.アクティブラーニングは応用展開の部分を担って初めて真価を発揮するので,通常の授業を縮小して探究活動を行うのは愚の骨頂である.また,学校によっては旧態依然なシステムの弊害か,有効にアクティブラーニングをしていない所があると聞く.中途半端が最悪なのはどこでも同じで,中途半端なグループワークをすると何も得られない.

 多くの人が経験している通り,大学の課程では教育学・心理学・哲学などでアクティブラーニングとの相性が良い.それは,決まりきった正解がないからこその特性である.したがって基本的には正解が存在する中等教育では,アクティブラーニングが活きる機会は非常に少ないのである.


 さて,話が逸れたが,小中高生の読書習慣が減っているのは問題であるが,だからと言ってラノベばかり読んでいる奴がエライかと言われれば,別にそうでもない気がする.そもそも,なぜ読書が必要とされているのだろうか.おそらく主な理由は次の3つであると思われる.

  1. 言語化能力
  2. 読解力は意思疎通力
  3. 人類文化の保存

 以下,順に述べていく.


1. 言語化能力

 以前,頭の良さ=言語化の上手さ なのではないか,という記事を書いたが,それを少し拡張した話題である.例えば,現状で何か困りごとがあったときに,人はその原因を探る.それが複数の要因にまたがっている場合には,一つ一つの要素を抽出してリストアップした方が良さそうだ.そのとき,問題点を一つ一つ言語化することで解決策が見えてくるのだ.

 また別の例を想像してみる.例えば,長い時間をかけて準備してきた祭りが今まさに終わろうとしている.そんなとき,今までの苦労と無事に終わることが出来そうなこの状況を感慨深く思うだろう.きっと仲間同士でその気持ちを分かち合うだろう.

 さて,これらの例で言語能力が皆無だったらどうなるだろうか.最初の例では,事の問題点が分からずに,『なんかマズイ,まじでヤバイ,とりあえずパねえ』みたいになるだろう.2つ目の例では,『オレ馬鹿だから分かんねえけどよお,なんかホッとした気分と寂しさが混ざり合ってんだよなあ』みたいになるだろう.

 別に2つとも日常レベルなので大きな問題はないが,なんだか物凄く損している気がする.多くの人が,現状の上手くいかなさを言語化してみれば,意外と大したことなかったという経験があるだろう.また,「寂寥感」という言葉を知っていれば,他の多くの体験と感情がリンクして人生がより一層面白くなるだろう.いや別に,『寂寥感を覚えますね』とか言えって話じゃあない.『こういうのって「寂寥感」ってやつだよな,体育祭の後に味わったやつだあ』くらいのノリでいいんだよ.

 つまり,言語化によって困りごとを減らせたり,日々の体験がより豊かになったりする可能性が上がるのである.ついでに言語化にはある程度の思考力が必要なので,日常から物事を考える頭が鍛えられる.それには,読書などで語彙力を備えておくのが良い.


2. 読解力は意思疎通力

 相手の言ったこと・書いたことをなるべく正確に受け取るのためには国語力が要る.特に文章においては,読解力と言われる技術が必要である.この技術が未熟であると,相手が別に言及してもいないことを誤ってキャッチしたり,言及されたはずの内容をスルーしたりして上手くコミュニケーションが行われなくなる.

 構造上仕方ない部分はあるかもしれないが,Twitterにおいて,とある引用ツイートにくっ付いている主張が,元ツイートの主題とずれていることをよく見かける.特にくだらない論争や政治の話題では見ていられないくらい酷いものがある.あれは知的生命体として何らかのバグを抱えているようにすら思われる.あの感じを現実世界でやると孤立無援の四面楚歌で孤独死するので,ああならないために読解力は必要だ.読解力は文章を読むことで練習できる.つまり,本を読め.


3. 人類文化の保存

 ぶっちゃけこの話題がしたかっただけなのだが,前置きが長すぎた.実は文字を読み,考えることは人類への寄与になるのである.

 かなりの頻度で『古典・漢文を何のために学ぶか』という論争が起きるが,答えは単純で,日本人としての価値観の継承・保存のためである.この国が二千年続いている背景には,中華文明からの文化の伝来や天皇・皇族・貴族の文化,武士の統治,庶民文化の発展など様々ある.これらを紐解いていくと,意外と今の価値観に通じるものがある.枕草子や徒然草を見れば分かるように,日本人って少なくとも千年くらいは全然変わってない.古典を読めるようになれば,連綿と続く日本文化を身に染みて理解できるのである.

 これは現代の言葉,しかも日本語に限った話ではない.どんな言語でも普遍的に同じことである.一人の人間が考えたり体験したりしたことを他の人間へ伝えるのに,話し言葉だけでは十分でない.書き言葉があって初めて多くの人に伝えることができるのである.

 動物は話し言葉を持っているが,書き言葉は持たない.だから継承が非常に困難なのである.人類は文字を発明し,物語や技術の継承を可能にした.それによって,一人の人間の一生では到底不可能な数の創造や発見が蓄積されていった.ある人に言わせればそれは文化かも知れないが,個人的にはそれを科学と呼びたい.科学は自然や数理を対象にしたものだけでなく,歴史や芸術をも含む.文字を知ることで思考が可能になり,先人の知恵を学ぶことができ,さらに深い思考が可能になり...この人類全体の継承活動に参加できる最も身近な行動が,読書である.

 何も別に難しい本を読む必要はない.つまらない文字の集合なんて読む価値はない.適当に読んでみて,気に入った物語や詩,思想に出会えればあとは誰か他の人に話すだけで良い.そうして蓄積が行われるのだ.この記事も(誰も読んでへんやろの前提だが)その活動の一環かと問われればその通りである.


Phylmer.M

天之&PhylmerMussert

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