化学を啓蒙する①化学教育

もっとも身近な喩え/科目として評判が悪い/暗記が大変/現象のイメージが難しい/化学の特徴/科学哲学的議題/経験の学問?/歴史学を例にとる/物理化学を理解する/数学の必要性/教員は嘘つき?/ボーアモデルの欠点/裏を言えば…/自然科学のモデル/科学者は嘘つき?/過去のホントは今の嘘/


  自然科学における化学というものは、どこかへお出掛けする場合における千葉駅である。何を言っているのかというと、千葉駅は県内の各地域を繋ぐハブとしての役割を担っているが、その他にも、同建物内のブランド服屋を訪れたりカフェやレストランで休憩したりすれば、ショッピングモールとしての存在意義を満たす。そうして来訪者は、千葉駅へ来るだけでもそれなりに楽しむことができるのである。化学はまさにこれと同じで、物理学、生物学、地学を繋ぐ架け橋的なものであり、それと同時に化学というそれ自体に奥深さとユニークさがあるので専門的に学んでも大変意義深いのである。

 しかし、化学という科目は苦手・嫌いだという生徒が少なくない。それは、暗記科目としてのイメージが強いことと、化学現象のイメージが初学者にとって難しいからであるようだ。確かに、無機物質の性質や有機合成のルートを覚えるのは大変であるし、原子や電子の様子はイメージが難しい上に、それらが本当かどうかを学習者が確かめることは困難である。

 化学嫌いを少しでも減らすためには指導法に工夫が必要であるが、「暗記」と「現象の想像」に関しては化学という科目(それだけでなく学問)のユニークさの根幹であると筆者は考える。そこで、2つの化学に関する議題:「化学は経験の学問なのか」、及び、「教員は嘘つきなのか」から、「暗記」と「想像」について思考を沈めていく。


化学は経験の学問なのか 

 「とある事象が幾つかの要因で起こった。それを知識として押さえておこう。」という姿勢は、経験的な学問に見られるものである。経験的学問の例として、歴史学や民俗学などの人文科学が挙げられる。これらは過去の事実がデータベースとなっているため、知識を蓄えることが学問に対する真っ当な姿勢となる。であるからやはり、科目としての歴史は殆どが暗記である。

 化学は歴史学ほどではないにせよ、ある程度は「知っておこう」の姿勢が必要になってくる。そして高校化学くらいの範囲では、多分、8割くらいが歴史の勉強と同じで「知っておこう」、「覚えておこう」である。それはなぜかというと、かつては(実際には現在もだが)、化学は実験で示された事実が学問としての中心だったからである。貝殻に塩酸をかけると発泡する、霧状の塩水が火にかかると黄色くなる、水と油は混ざらない…などと実験事実がデータベースとなって学問を大きくしていた。したがって、化学は歴史と同じように過去の事実が現在の根拠なのである。

 実際は化学にも、物理学と同じようにきちんと数式で論じられる理屈は存在する。しかしそれを一般化学として市井の人が理解することは難しい。なぜなら、主に物理化学と云われるこの分野では、物理学と同じように数式で現象を記述し議論するのだ。最低でも数学Ⅲの微積分法の理解は必須である。であるから、中学や高校の科目としての化学は、結局のところ記憶力に頼るしかなくなる。しかし単なる丸暗記ではなく、実験した経験から事象の理解に繋がり、記憶に長く残るようなやり方が好ましい。それは、化学が無数の実験事実から学問へと成った歴史的にも正しい取り組み方なのだから。 


教師は噓つきなのか 

 現行の学習指導要領に沿った検定済みの中学理科の教科書では、「原子核の周りには、負の電気を帯びた電子が周っている」と言っている。一般的な高校の化学の教科書でも、概ね同じようなことを語っている。これはボーアモデルという電子の動きを説明する理屈のひとつであるが、詳しい人なら知っているように、このモデルは必ずしも正しいとは言えない。

 その理由は次のとおりである(この段落は読み飛ばしてしまっても構わない)。ナノスケールの物体は、位置と運動量(速さを表すと考えて良い)の両方を確定することができないという原理がある。ボーアモデルはまさにこの「不確定性原理」に矛盾してしまうのである。ナノスケールの物体はエネルギーを固有に、かつ、不連続にしか持つことができないので、惑星のような軌道で運動していると考えると、固有なエネルギーから位置と運動量を確定できてしまうのだ。

 ボーアモデルは量子力学の視点で見つめたとき、致命的な欠点を有するのだ。それでは、そのボーアモデルを扱う教師は生徒に嘘をついているということだろうか?結果的には嘘をついていることになるが、これは仕方のないことなのである。それはなぜかというと、「量子力学の視点で原子を見つめたとき問題がある」ということだからである。これは逆に言えば(厳密には裏を言っているのだが)、「量子力学の視点で原子を見つめないのならば問題はない」ということであるが、この命題は(経験則的に)真である。自然科学の諸分野では、「近似」の概念が重要な役割を担っている。量子力学は我々の五感の埒外にある極めて高度な物理学であるから、少々の近似をしても現実との差異は重大ではない場合が多い。

 化学者が原子論や分子論を認めたとき、様々な現象にしっくり来る説明を与えることができた。それは、分子や原子の存在の真偽に関わらず、であった。実際、原子や分子の存在が確かに観測されてからまだあまり時間は経っていない。

 自然科学では、眼の前にある現象を上手く説明するために模型での簡易化や数式での記述といったモデルの構築を行う。これは現象が理論に先立っているのであって、理論が現象に先立っているのではないということを意味する。そして、あるモデルでひとつの現象を上手く説明できたとき、そのモデルに沿った他の現象を観測できて初めて「正しい」ものとして受け入れられる。しかし後の時代にその「正しさ」は覆るかもしれない。こうして、現在の科学者は次の時代の大嘘つきになっているかもしれない。しかしそれは科学が発展している証拠で喜ばしいことなのだ。 


つづく(かもしれない)

Phylmer.M

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