ジョークについて考える

見どころ

気付き/外に出ろ/communication ≠ コミュニケーション/コミュ障/会話の3段階/あたりまえ/分類/普遍性/ドヤ顔でジョーク言ってスルーされた話/外国人に母国語のコミュ力を指摘された話/失敗して学べ/


コミュニケーション技術としてのジョーク

 筆者は理解した。かの陽キャがしているコミュニケーションには、どんな一般的法則があるのかを。

 というのは冗談だが、今回はまさにこの冗談(ジョーク)に関する気付きを中心に語っていく。なお、本記事には「ジョーク」と「冗談」が入り乱れる可能性があるが、意図的な使い分けはしないため気にしなくてよい。

 また、この記事で語る内容はコミュニケーションの方法論ではなく分析論であるから、これを読んでコミュニケーションが達者になれるなんてことは有り得ない。それは筆者が断言し、あなたのコミュニケーション能力強化に一切寄与しないことを保証する。そしてまた、ジョークとは会話の節々に現れるユーモアに起因しており、それに次ぐ朗らかな空気感(後述)が重要であるため、ジョークを捻りだしたからと言って笑いが取れるとは限らない。要するに、コミュニケーションが上手くなりたいならばこんなもの読んでないで外に出て人と関われということである。


communicationとコミュニケーション

 本記事でのコミュニケーションの定義は、「互いの意思、または意図を伝えること。また、その過程で生じ得るその場の空気感を良いものにすること」とする。定義の前半部分はcommunicationの語義である意思疎通に含まれるため、説明は不要である。後半部分については以下に解説する。

 "communication"と「コミュニケーション」は極めて似ている概念であるが、後者は日本語化しているため、些か複雑なものとなった。その複雑性とは、「雑談力」のような概念を吸収している点にあると感じる(主観)。したがって、カタカナの「コミュニケーション」には雑談に関する定義づけが必要である。本記事では雑談力そのものには焦点を当てないというか筆者はそんなもんわからない。そのため、少し俯瞰してその場の空気感(「場の空気論」とでも名付けようか)という間接的な事柄を捉えることで、ジョークの有用性を語っていく。

 ちなみに"コミュ障"というのはネットスラングであり、"人見知りでお喋りがあまり上手ではない状態"を指すのではないらしく、寧ろ "雑談やそういった場の空気感が苦手な人" のことをいうようだ。それならば筆者はコミュ障である。いや、概して人はコミュ障的であろう。したがって、コミュ障を名乗る者の殆どは別に詐称という訳ではない。


コミュニケーションの段階とジョークの分類

 筆者の観察によると、コミュニケーションには3つの段階が存在する。(ここは特に話の広がりがないので読み飛ばして良い)

  1. 会話を始める
  2. 会話を続ける
  3. 会話を終える

 当たり前である。批判はご尤もだ。しかし、この要素は定義に沿っているのだ。それは、「雑談力」的な力が試されるのが基本的には2段階目であることだ。

 さて、ここからが本題である。ジョークはコミュニケーションの2段階目、継続の段階で威力を発揮する。なぜならそれが最も自然だからだ。会話が終始ジョークだらけなのは流石にうざったい。


 ジョークには基本的な技術(或いは定型)が存在し、多くのジョークはそれに沿っているように思われる(主観)。筆者のこれまでの観察で、①誘導誤認 ②咀嚼・反芻 ③自虐 の3つが今のところ汎用性の高い基礎技能であることが見いだされた。ここではそれぞれの具体例を挙げることはしないが、読者諸君には日常会話で見られるジョークが次の3つのうちどれに当たるかを考えてみて欲しい。きっとどれかに該当するだろう。


①誘導誤認

 話の流れから予想されるオチを捻じ曲げたり、予想外の展開に繋げる技術。会話の序盤で布石を打つのは結構だが、わざとらしいとみっともないので自然にやることが求められる。

②咀嚼・反芻

 以前あった会話や共有した経験などを蒸し返して内輪化する。初対面ではなく、尚且つ、まだあまり親しくなれていない人との会話では特に効果を発揮するように思われる。前に会ったときと比較するという点において、所謂『髪切ったんだ、可愛いね、似合ってるよ』はこれに分類される。(例示したセリフはジョークである。ザイオンス効果を考慮すれば見慣れている髪型のほうが良く見えるのだから、変化した髪型は見る者に一瞬の戸惑いを生じさせる。したがってこれは優しいジョークなのだ。)

③自虐

 説明不要。一番使いやすいが使いすぎるとうざい。初対面の人との会話では使うべきでない


「ジョーク」の普遍性

 一般的にアメリカンジョークと日本のジョークは、文化的基盤が異なっているため笑いどころも異なっている。例えば筆者が失敗したジョークのひとつに『The solution in the method of indoor farming is the solution to the world food problem.』というものがある。これは英語でグループワークする講義のとき、同じグループの女子に向かってドヤ顔で発したジョークであるが、全く気付いてもらえなかったのである。なんなら別のタイミングで言葉を換えて言ったが、それでも拾ってもらえなかったのである。悲しみで一月くらい凹んだ。

 さて、しかしながら前に定義したコミュニケーション能力の中に含まれる「ジョーク」には文化的な障壁がないように感じる(主観)。そのため、英語だろうが日本語だろうがスウェーデン語だろうが中国語だろうがエスペラント語だろうが関係ない。


最も大切なこと

 見切り発車で書き始めたのでまとまらなくなっているのだが、基本的にコミュニケーションは会話の意思を見せねばならない。筆者は以前、先に触れたのとは別の大学の講義で、オーストラリア人の教員にとある指摘を受けたことがある。それは、『君は英語を話すのはとても上手いんだけど、とても話したそうには見えないんだよ(意訳)』というものである。まさか外国人に英語で、しかも自分の母国語にも共通のコミュニケーションの未熟さを指摘されるとは思っていなかった。図星を突かれたショックで一月くらい凹んだ。

 コミュニケーションにおいて最も大切なのは会話しようとする姿勢であるから、ぶっちゃけここで述べた諸々の分析は何ら重要ではない。会話が上手な人を見ていて感じたことであるので、やはりコミュニケーションというものは外に出て、人と関わり、失敗を通じて学ぶべきである。


Phylmer.M


参考資料

  • Jennifer Aaker, Naomi Bagdonas著, 神崎朗子訳. 『ユーモアは最強の武器である』. 東洋経済新聞社. 2022年
  • 小林昌平, 山本周嗣, 水野敬也著. 『ウケる技術』. 新潮社. 2007年

あとがき

 定期更新をやり始めたときのように何も考えずに上から下へと書いていったが、全体的に冗談みたいな駄文になった。修正する活力もないので、もうそのまま公開してしまう。

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