ゲームに関する所感

見どころ (Abstract)

昔はゲーム馬鹿/遊びの誘い/変遷なし/学への誘い/初期の離脱/それ以外の面白いこと/目的の違い/離脱の必然性/人によって異なる/MHの交友関係/強者/ゲームという接点とそれだけ感/結婚にまで至るケース/無目的の堕落/指向性のある活動/やりたい奴がやればいい/ゲームの邪悪感/メディアの邪悪/

ゲーム三昧の時期

 親譲りのゲーム脳で昔から損ばかりしている。というのは冗談だが、小学生の時分、夏休みのゲーム三昧から外へ遊びに行かなかったことで、母親にゲームボーイを破壊されたのがトラウマとして残っている。実際、あらゆる小学生はゲーム以外の楽しみをあまり持っていなかったのではないかと思っている。現在となっては、小学生の楽しみはSNSに移行しつつあり、その好みもガラパゴス化しているようで少し時流を感じるものである。あの頃はゲーム以外の楽しみと言ったら、虫採りとか光る泥団子づくりとかの、まさに小学生らしいものであった。近所の友人とは遊びの好みが合い、度々誘われていたのだが、老生はどうしても球技が嫌いで、サッカーしよう、ドッヂボールをやろう、と言ってくれていた友人の誘いを聊か億劫に思っていた。この頃は確かにゲーム以上の刺激物は殆どなかった。

 中学では部活が原因で休日のゲーム時間などない、なんてことはなく大いに遊んでいた。そもそも、中学生の楽しみは小学生と大差ない。行動範囲が広がり友人が増えたことはまさしく変化ではあるが、趣味趣向を変化させるようなほどではない。

ゲーム離れの兆候

 変化があったとすれば受験期である。中3の夏ごろから、平日も休日もほとんどゲームをしなくなった。勉強に面白みを見出した時期であったので、まさにゲーム以外の楽しみを得たのである。家だとだらけがちなので、塾の開始時間から終了時間まで長く居座って勉強していた記憶がある。

 受験勉強の疲れを除くための気分転換としてゲームプレイを選択する者は多いだろうが、自分の場合はそうではなかった。これがゲーム離れ的な現象の初動であったと自覚している。

 高校では友人の半強制のためにゲームをしていたが、この頃は音楽にのめり込んでいた時期でもあり、放っておけばゲームなどせずにずっと楽器を弾いていたことだろう。これもゲーム離れに拍車をかけた。

ゲームという存在の位置付け

 さて、要らぬ過去編から見えてくるのはゲームプレイを何の目的でするか、という問いである。筆者は暇つぶしという目的のためにやっていたため、やることができれば自然と離れていった。この目的というものは当然ながら人によって異なっている。単純に楽しみとしてやったり、友人の輪を拡げるためにやったり、一連のゲームシリーズをコレクションしたり…枚挙に暇がない。

余談

 ゲームは交友の輪を拡げる役割に優れている。筆者はモンスターハンターシリーズが好きであるが、高校での友人関係が広がった理由の一つにこれが関わっている。それはモンハン強者である友人の存在である。この強者が周りを巻き込んでモンハンを半強制するので、それに巻き込まれた者で緩くコミュニティができた。今でも強者の呼びかけで度々モンハンのために集まることがある。また、モンハンを(ある程度は)継続していたことで、中学のときの友人とたまに遊ぶようにもなった。今のところは殆どそれだけが接点であるような感じがしているため、脱モンハン=脱友人 とならぬように別の可能性を模索している。

 別の例では、芸能人の誰かがモンハンをきっかけに交際を始め、結婚したというのがあった。今まで野郎共で騒がしくやっていた身としてはそんなこともあるのか、という腑抜けた感想しかなかった。

要するに…

 このように、ゲームプレイは無目的な堕落ではなく、寧ろ指向性のある活動だという側面が強い。前者の堕落のイメージは昔は根強かったが、今やそれはSNSに取って代わられている。ゲームの邪悪性はSNSより弱く、漫画本よりかは多少強い、という感がある(主観)。

 要するに、やりたい奴がやりゃあ良いんだ。


補足

 ゲームに良くない感じがあるのは完全に刷り込みである。かつてはメディアが凶悪犯罪者とゲーム愛好者を結ぶ付けたり、ゲームが思考・知能に与える悪影響などを報じたりしていた。前者は論外であるが、後者は疑似相関であり因果ではない。簡単な話、やるべきことをやらずにゲームばかりしている者が鋭い思考や優れた知能を持っているはずはない。それが犯罪という短絡的な行動に現れるのではないか。


Phylmer.M

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