久々の定期更新
見どころ(abstract)
半年ぶり/どうせ誰も見ないじゃろのスタンス/悲しいことがあった/バイト続かない/予想外に仕事ができない/「ぼくは生まれつき働くのに向いていないんだ」/他人に興味ないのに他人と比較する悪癖/劣等感が行動の起爆剤になるべきではない/エリックフォーファーのアフォリズム/色々の早期化/「今」に意識を向けよう/瞑想の根本的概念/方法は何でもいいんじゃね/ゲーム・読書・スポーツ/スコアに拘るとダメ/SNSをボーっと見るのもダメ/過剰に外界と繋がるのが良くない/
だいぶ久しぶりの更新
最後の更新から半年も経ってしまった。あまりにも忙しかったり、書くべきネタがなかったりしたわけではない。単に記事を書くのに気が向かなかっただけである。しかし、今回突然書く気になったのには訳がある。それはここ最近で沢山の気づきを得たためである。それらの一つ一つを、いつも通りどうせ誰も見ないだろうのスタンスで書いていく。
向き不向きというより意欲
悲しいことがあった。3月に始めたアルバイトを4月中にやめてしまった。べつに職場の人々に対する未練のように人情的な悲しさではなく、個人的な悲哀である。というのも、接客やレジ打ちなどの一般的な作業に多大な労力を強いられていたことに気づき、自分の仕事のできなさを嘆いているのだ。苦手な職種を避けに避けて辿り着いた仕事なのにこのざまである。ピノキオではないが、
ぼくは生まれつき働くのに向いていないんだ
切実にそう思った。
そもそもなぜそのアルバイトに募集したのか、すぐ辞める可能性を考慮できなかったのか、という批判が聞こえてきそうである。尤もな言及だ。そこまでの浅慮で行動した理由は、ざっくりいうと「劣等感」である。1月の成人式で何人かの旧友と話し現状を聞くと、ある者は社会人になって家計を支えるまでに成り、ある者は学業の傍ら金を稼ぎ、という具合で特に収入に関する自身との差異を見ることになった。彼らに比べ、自身は学業を修める傍ら学業に勤しんでいるというある種のWワーク状態。小銭を稼ぐのも(マクロな視点で)ままならないという有様。この頃は学期末で精神が参っていたためか比較癖が酷かった。そんなに他人に興味ないのに。それゆえ、早く何かしらアルバイトを増やして金を稼がねばと誤解していたのである。そうして向き不向き以前に、最初期のポテンシャルの壁(我々の専門でいうところの活性化エネルギー)を乗り越えるための情熱が湧かないような仕事を選んでしまった。畢竟、得たのは金ではなく劣等感が行動の起爆剤になるべきではないという教訓だった。
適度に今へ意識を向けること
第二の批判として、金を稼ぐことは通常なら目的ではなく手段であるはずだから行動理念が誤っている、というのが予想される。当然、金が必要なのは目的を達するためであるから、行動の根本にある考えは誤りでない。しかし金が真に必要になるのは少なくとも3年先であり、まだ猶予がある。その猶予に胡坐をかいている現状への無意識の反発ゆえの焦りだったのかもしれないと、今になって考えた。3年先のための貯金ではあるが、それはその先の5年間を保証するものであり、その5年間は残りの一生を変える価値があると目される。現在の苦労がダイレクトに響いてくるのだ。
このように将来のことで不安になっているのは多分、自分だけではないのではなかろうか。エリックフォーファーのアフォリズムの一つに、
将来のことに気を取られると、あるがままの現在が見えなくなるだけでなく、しばしば過去を捏造することになる。
と綴られている。これは大きすぎる目標や遠すぎる到達点を掲げると、思考は常に将来を見据えてしまうために現在を楽しめないことや、過去の誤った行動に対して無理やりな合理性を与えてしまうことだと私は解した。身近な喩えだと、早期教育で子供が壊れる例や早期化した就活のせいで学生生活が窮屈になるようなものである。
精神状態が良好で豊かに過ごすためには、過去に縛られたり将来に怯えたりすることではなく、現在に集中することである。そこで有用なのは瞑想の考えである。瞑想と聞くと、慣れていない人なら宗教的な感じを覚えるかもしれない。しかし瞑想は無心を強いられたり煩悩を消したりするようなスピリチュアルなものではなく、現在に意識を集中させるための方法のひとつなのだ。めんどくさいので割愛するが、瞑想には呼吸にフォーカスするものだけでなく歩行瞑想などというバリエーションもある。おもしろいのでやってみるといい。
現在に意識を向けるのならば、なにも常に瞑想である必要はない。方法としては熱中できるものがいいので、ゲーム・読書・スポーツなどなんでもいいのではないだろうか。ただし、極端にスコアに拘る競技や、対人要素の強いオンラインゲームなどはいけない。ストレスが甚だしい。だからTwitterをぼーっと眺めたり、YouTubeをだらだら見たりするのもだめだ。つまり、過剰に世界中と繋がれるデバイスは時に有用だが、精神的な負荷も同時に過剰である、という平凡な結論に至る。今回もまとまっていないが終わる。
Phylmer.M
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